Jugoslovenska škola

私淑するものとして ヴァルダル川から トリグラウ山まで ユーゴスラヴィア プラーヴィ

クロアチア代表と大統領フラニョ・トゥジマン サッカーと民族主義の澎湃 麗しき我らがふるさと/スティエパン・ボベク 、ズラトコ・チャイコフスキー、ブランコ・ゼベツ、ベルナルド・ブカス、ヴラディミル・ベアラ、ブルノ・ベリン、イヴィツァ・ホルヴァト、ドラジャン・イェルコヴィッチ、ヨシップ・スコブラル、ダヴォル・シュケル、ズボニミール・ボバン 、ロベルト・プロシネチキ 、アレン・ボクシッチからルカ・モドリッチ、イヴァン・ラキティッチ、マテオ・コヴァチッチ、マリオ・マンジュキッチ、イヴァン・ペリシッチ

他のユーゴスラビアの国々と比べて、 クロアチアは、独立後1990年代、大統領自身がFranjo Tuđmanサッカーの熱烈な愛好家―フラニョ・トゥジマン―によって統治されたのが特徴的である。

 クロアチアのサッカーの強い政治性を理解する決定的で些細な要素―まず第一に、クロアチアでは、 サッカーは様々な戦略で権力を有するトゥジマン率いる極右民族主義政党クロアチア民主同盟(HDZ)の直接的な支配下のもと制御されていた。 この場合、クロアチア民主同盟の信頼される党員の任命と同様に、代表連盟やオリンピック委員会から新聞編集局ら全スポーツ分野の密接な制御のもと特に反映されていた。 第二に、大統領トゥジマンと彼の顧問の手中にあった強い権力の私物化、それ故に、トゥジマンは重要な政治的事柄と考えたサッカーに直接的に関わっていた。 ファンとしても、代表チームと共に、特に彼が愛したクラブ、"ディナモ・ザグレブ" のスタンドに来賓することを好み、 チーム名をディナモという共産主義を含意する言葉を排除するために、 ハシュク・グラジャンスキーへ、クロアチアザグレブへと次々に改名をさせた。 その結果、そのチームの改名は伝統ある歴史と名前を剥奪したために、 ディナモ・ザグレブのサポーターで、 欧州でも悪名高いフーリガン、バッド・ブルー・ボーイズと暴力的な衝突を繰り返した。

 クロアチア民族の父のイメージを刻印するスポーツ

 クロアチア独立直前、正当な抜け道を見つけ出し、 トゥジマンによる"クロアチア選抜" 対アメリカ代表 のクロアチア最初の国際試合、国家間の試合 ― UEFA U-21欧州選手権の決勝にユーゴスラビア代表の一員として 勝ち進んだズボニミール・ボバンダヴォル・シュケルアレン・ボクシッチロベルト・プロシネチキ、ロベルト・ヤルニらの若手は不参加―は、 トゥジマン政権の外交上の大きな成功となり、民主主義の世界でクロアチアの国際的承認を示す消すことができない大きな警笛となった。

 ズボニミール・ボバンクロアチア代表の主将、真のリーダー、狂信的な愛国主義者、今は国際サッカー連盟FIFAの重鎮となる―とミロスラフ・ブラジェヴィッチ―クロアチア民主同盟の党員、交誼を深めた親密な友人、風変りで優秀な監督― のトゥジマンの知遇を得た二人は、クロアチア大統領の天性の指導者の才能を称揚し、彼らは常に新しい国家の代表チームの方途について語り合った。

 トゥジマン中心に作られるこの国家の父のイメージは、サッカーにとどまらない。 サッカーでイメージを構築し、 クロアチアのより良い運命を託すカリスマ的な政治指導者のイメージをも、次第に作っていった。

 今日の政治的エリートは、トゥジマンがかつて行った進歩的で挑発的な方法で、彼らのイデオロギー的なプロモーションとして、 もはやこのスポーツを利用しない。 しかし、このスポーツの社会的な分野で、政治的な性質は残ったままである。特に代表チームでは。そして、今もなおトゥジマンの遺産は生き続いている。

Lijepa naša domovino 炎 Vatreni

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