マケドニア代表・サッカーの紐帯/フィリッポス2世、アレクサンドロス大王、ユスティニアヌス1世、ゴツェ・デルチェフ、ヴォイヴォダ・バブンスキー、マザー・テレサ、トシェ・プロエスキからゲオルゲ・ハジ、ダルコ・パンチェフ
大セルビア主義者のスローガンになった、スロボダン・ミロシェヴィッチ独裁政権下で使われた「Srbija do Tokija /東京までセルビア 」を生んだ契機とされる、 ユーゴスラビア崩壊とともに、ツルヴェナ・ズヴェズダが極めた隆盛(UEFAチャンピオンズリーグを制して欧州王者になったのちに、東京でのインターコンチネンタルカップを制して世界一になる)は、 ユーゴスラビアを代表する偉大なマケドニア人ストライカー、ユーゴスラビア・リーグでは、マケドニアのクラブとして、最初で最後のタイトルをFKヴァルダルにもたらし、ヴァルダルとツルヴェナ・ズヴェズダで通算243試合168得点を記録、 ヨーロッパ・ゴールデンブーツを受賞したダルコ・パンチェフによって支えられたが、そのパンチェフを輩出したマケドニアが、独立後、雌伏の時を経て、U-21欧州選手権予選で、 フランスを抑えて、首位で突破した新たな世代とともに、新しい戦端を開く。
内部マケドニア革命組織に、標的にされながら、バルカン戦争と第一次世界大戦で、勇敢に闘ったチェトニックの最初の指導者で、ドラジャ・ミハイロヴィッチの有名なチェトニックの凱歌のもととなるものを作ったとされるヨヴァン・ストイコヴィッチ・バブンスキを曾祖父に、キャリアの晩年には、ガンバ大阪に所属し、日本でも時を過ごしたボバン・バブンスキーを父親に持ち、弁舌の才と高い教養を備え「哲学者」と称されるダヴィド・バブンスキー、ラボトニツキで将来を嘱望されるエリフ・エルマス、ダルコ・ヴェルコフスキ、エニス・バルディなどの成功したU-21の8人と クロアチアのHNLに所属するインテル・ザプレシッチでの邂逅が、資質を開花させ、その左足で、イタリアでも、ゴールを量産するイリヤ・ネストロフスキなどの若さと経験を組み合わせ、不死鳥の如く、アレクサンドロス大王の精神を再び蘇らせる。