Jugoslovenska škola

私淑するものとして “Srbija do Tokija” 東京までセルビア "Od Vardara pa do Triglava" ヴァルダル川からトリグラウ山まで ユーゴスラヴィア プラーヴィ

Dr.ミルティン・イヴコヴィッチ - ミルティナッツ (ユーゴスラビア王国代表) / セルビア主将 医者 革命家 反ファシズム主義者 共産主義者 闘士 サッカー選手

ユーゴスラビア、特にセルビアのスポーツ、サッカーの世界では―このスポーツと表裏一体に結びつく― Dr.ミルティン・イヴコヴィッチ-ミルティナッツは多くを意味する。

 二度の世界大戦期の伝説的選手の一人、ユーゴスラビア王国代表、1930年ウルグアイ第1回W杯3位の主将 (最初のW杯のベストイレブン、世界最高のディフェンダー)、 バルカン戦争、第一次世界大戦では、陸軍元帥、最高司令部参謀長だったセルビアの国民的英雄ラドミル・プトニクの孫、 カラジョルジェ星勲章とレジオンドヌール勲章を受勲した陸軍大佐ヨヴァン・イヴコヴィッチの息子、 愛国者、医者、反ファシズム主義者、左翼、共産主義者、硬骨漢、闊達、1906.3.3 - 1943.5. 25 ベオグラード生まれ。

フドバル レカル

 現在のツルヴェナ・ズヴェズダの母体で、セルビア民族主義の象徴であるSKユーゴスラヴィヤで活躍 ( 16歳でデビュー、通算235試合、カレニッチ市場近くの荒地で技を磨き、象徴的な名を持つ小さなクラブ "オビリッチ"が最初のクラブ) 、のちにBASKベオグラードへ ( "Soko"から 改名された第3のクラブ)、ユーゴスラビア王国代表には( 19歳でデビュー、通算39試合、モンテビデオW杯では主将)、 アムステルダムオリンピックベルリンオリンピック、第1回モンテビデオW杯に参加、 サッカーと同時に勉学も怠らず、医学に精励し、クネズ・ミハイロヴァ通りで開業し、医者として従事。

ポリティカ

 ミルティナッツは共産主義運動の同調者だった(国王アレクサンダル1世政権では顕在することはなかった)。 ナチス・ドイツの占領時(ミラン・ネディッチの管理下のもとフューラーの手中にあった傀儡:セルビア救国政府) に共産主義運動と連携する。 最初の政治的関与は、ユーゴスラビア共産主義者同盟と協力し、ドイツのヒトラー政権への抗議のために、ベルリンオリンピックへのボイコットを主導したことだった。 さらに、ユーゴスラヴィア共産主義青年同盟 (SKOJ) の新聞 "ムラドスト"の編集長となり スポーツのプロフェッショナリズムや政治化など今日にも関連する事柄を多く批評した。 しかしながら、これらの政治活動は、特殊警察やナチス・ドイツの秘密国家警察ゲシュタポに気付かれずに見過ごされることはなかった。 最後の試合となったBASKの記念試合でナチスが捕らえたときには、最終的に、この積極的な共産主義イデオロギーの信仰が終焉となり、若く、論議を呼ぶ人生はわずか36年で終えた。

 人生、愛、犠牲、進取、情熱...のなかで正義を探る人々にとって道徳的規範や愛国心ロールモデルとなる並外れた人格の永続する記憶はここに残る。ミルティン・イヴコヴィッチ - ミルティナッツ,伝説は永遠に続く。

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