Jugoslovenska škola

私淑するものとして “Srbija do Tokija” 東京までセルビア "Od Vardara pa do Triglava" ヴァルダル川からトリグラウ山まで ユーゴスラヴィア プラーヴィ

ヨシップ・イリチッチ "ヨヨ"(スロベニア代表) / プリイェドルのボールの芸術家 教授 おばあちゃん イル・プロフェッソーレ ラ・ノンナ カーニオラン ボスニア・ヘルツェゴビナ スルプスカ共和国 クロアチア スロヴェニア トリグラウ マリボル ズラトコ・ザホビッチ アタランタ チャンピオンズリーグ 1試合4得点

不抜之志

 取り扱うことが難しい稀世のプロフィール 長身190㎝の左足のボールの芸術家 キャリアの隆盛 生命を脅す2つの横禍 選手キャリアを脅す重度のリンパ節疾患の病気とも戦う 通常なら長身190㎝80kgならハーフ・ウィング-イタリア語ではメッザーラ-より、ストッパーに映ることが普通。 スルプスカ共和国のプリイェドルの芸術家が有する特徴 -偉躯、長身、長い手足、広い肩幅、カーニオラン、バスケットボール選手のような風貌、埃をかぶった三枚扉の衣装ダンスのような外観、見事な手練のテクニック、ドリブル、トリックやフリックの魅惑的なレパートリー、殺人的なハンマーまたは画家の絵筆にもなり得る左足、ゲームへの素晴らしい洞察、時々無為で怠惰で気難しい性格-のため、このポジションでは余りにも奇妙に映る。

 ラ・デアへ笈を負ってから直に敢闘して15得点10アシストを記録。昨季はイタリアの年間ベストイレブン、ベスト・ミッドフィルダーを受賞(グラン・ガラ・デル・カルチョ) 。そしてこの騏驥のリーダーシップのもと、イタリアのベルガモの小さなクラブの歴史でかつてない偉業 - 初の欧州チャンピオンズリーグ。そして今日、チャンピオンズリーグの歴史で32歳41日での最年長で1試合4得点を記録した巨歩を記す。チャンピオンズリーグの歴史でノックアウト・フェーズでのアウェーの試合で2人目の1試合4得点を記録した選手に。 チャンピオンズリーグの歴史で46人目の1試合4得点を記録した選手に (ユーゴスラビアからは伝説的なパルチザン・ベオグラードのミロシュ・ミルティノビッチツルヴェナ・ズヴェズダ のボラ・コスティッチらに始まり8人目)。 イタリアの歴史で4人目のチャンピオンズリーグで1試合4得点を記録した選手に。これで新しいカレンダーになってから驚嘆の11試合14得点1アシスト 。今季現在のこの時点で、公式戦29試合21得点9アシスト。初のチャンピオンズリーグで準々決勝進出、欧州のエリートクラブの8チームに導く。  欧州チャンピオンズリーグ7試合5得点1アシスト...

 ボスニア・ヘルツェゴビナスルプスカ共和国のプリイェドルで、名前からも明らかなようにサンスキ・モスト出身のクロアチア人の家庭のもと生まれた。 既に政治的緊張、民族衝突が増大し、戦争直前のユーゴスラビアで、あまりにも苦しく早過ぎた父との永訣が起因となって、比較的安全なスロベニアのゴレンスカ地方へと戦禍を逃れた 。フットサルを長く興じたのちに、郷党トリグラフ・クラーニにある大きな芝生のフィールドに変えてから、インテルブロックに移る前に、スロベニアの下部ブリトフとボニフィカに所属していた。 インテルブロックでは65試合14得点3アシスト、 カップ優勝に貢献したものの、翌年2部リーグ降格を招いたことで、この若き逸足は大きなフィールドでのキャリアをあきらめて、フットサルに再び戻ろうとしていた。しかし、下部に埋もれていた才能を一人の人物が器遇を施して救った-それがスロベニアの伝説的なズラトコ・ザホビッチだった。この奇士の招きでマリボルで再出発してやり直してから、僅か56日11試合で、アペニン半島で最も優秀で経験豊富な教導者の一人が、筐底から連れ出していったのだった 。インテルブロックのものが、キャリアで唯一のトロフィー。しかし、このボールの芸術家は、これまで長い徒路で万難を排して最後には全てで勝利してきた...

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