Jugoslovenska škola

私淑するものとして “Srbija do Tokija” 東京までセルビア "Od Vardara pa do Triglava" ヴァルダル川からトリグラウ山まで ユーゴスラヴィア プラーヴィ

マケドニアの連袂、北マケドニア代表の運命の日 / サッカーと政治 オフリド合意 マケドニア社会民主同盟 民主統合連合 内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党 アレクサンドロス大王 ヨヴァン・バブンスキー エリヤ・スピッツ ドラゴスラヴ・シェクララツ ダルコ・パンチェフ ジュロヴスキー兄弟 イリヤ・ナイドスキ ゴッツェ・セドロスキ ボバン・バブンスキ ゴラン・パンデフ エリフ・エルマス エニス・バルディ ストレ・ディミトリエフスキ エズジャン・アリオスキ リストフスキー兄弟 バブンスキー兄弟

D-デイ

 マケドニアは煙炎の中で哀歓を共に大事を成し遂げた: 共通の紛れもなく明白なマケドニアのシンボルの元で国家の団結 。たとえしばしばサッカーと深く結びつく旧ユーゴスラビアでそれだけが全ての問題を解決するのに十分でないとしても 。マケドニアは常に代表チームでは必然的に不均衡の中で起臥している。 そして独立の望蜀はこのような殷富と怡悦の瞬間を待つために快駛していた。それは社会的日常で必ずしも見つけることができない多くに分けられる異民族の融和、またマケドニアの名のもとに添うことを証明する混合: 主に正教のスラヴォ-マケドニア人、アルバニア人むしろムスリムセルビア人、ロマ人、トルコ人、ワラキア人、ヴラヒ人... 。考えられる新たな最高の簡抜により輪郭が従来比較的曖昧だったナショナル・アイデンティティに依拠し、そして今全てを深く包括して過去の誤謬を一つ一つ戒慎する 。(国家の名前を"北"マケドニアに変えて、肌を変えた代表チーム。NATO加盟がEU加盟への門戸を開きマケドニアの新生面を開く。)

 他のユーゴスラビアの各共和国と違い、マケドニアは内部間の民族抗争によって独立が起こることがなかった唯一の国家。 今日、完全な調和、比較的均等の中で共存する異なる共同体で起臥することは難しい 。しかしながら、必ずしもその事実が完全に当てはまるということではない 。コソボでの抗争では、アルバニア民兵武装反乱に着手し国家は今まさに内戦に嵌まろうとしていたが 、その危機は欧州連合(EU)とアメリカ合衆国の仲裁により"オフリド合意"を通じて相対ずくで解決策を見出す。これによって民族的少数者が人口の20%以上と示す社会で所を得ることが可能となり、国家にとっても全般的に重要な国家の巨歩となった。 ボールに関しても、オフリド合意がほぼ例外なくユーゴスラビア独立後のスラヴォ-マケドニア民族による代表チームを徐々に瓦解し、民族性にかかわらず、フィールド上でも双方で能率的な混成チームを組み立てるだけでなく、マケドニアの全体の位地としての役割を果たすことが可能となった。

 マケドニアは向社会的な民主党によって取って代わられるまで数十年以上に渡って政権を維持した内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党(VMRO-DPMNE)による超国家主義者の政策と相克して、ナショナル・アイデンティティは複数存在している。 内部マケドニア革命組織にとってナショナル・アイデンティティは 多かれ少かれブケファロスに跨がるアレクサンドロス大王であり 、スコピエの中心部に瑰麗な歴史的人物の彫像を建立、または古典的様式に再現する建物を建設することによってこの考えを人工的に具現化している 。何世紀にもわたり存在しない国境に基づきマケドニアを改正することは決してない。 アイデンティティは現在のマケドニアであり、少しずつ形作っていく。

 現在、マケドニア社会で勢力均衡が変容していることの顕証として、最新の上位4つのクラブのうち3つが、アルバニア語を起臥とする民族のクラブ 。これは数十年前には全く想像もできなかったことだ。 連盟の新たな会長に当選したアルバニア人ムアメド・セイディーニは宣誓式の場でマケドニアのサッカーは統合への真の発電機として 政府と完全に独立した唯一のスポーツ連盟であることを声高に誓った。しかし、これは我等の正称である呼称"北マケドニア"を含まなかっために軋轢を引き起こした。 だだし、変わることはないだろう、恒常的に人々は"マケドニア"のことだけ口にし続けている 。連盟の新たな会長はアルバニア人かもしれないが、全てのクラブに配慮しなければならない。 もし政治家が同様に働くなら、この国は今日の場所に存在していない。

 マケドニア代表は部分的に群衆を統一することに成功したが、 起臥とするクラブでは民族的相違は明白であり、スラヴォ-マケドニア人がアルバニアのチームに追従するのは今後も僅かだろう。逆もまたしかりだ 。アレクサンドロス大王の征服は何十年も続いたのは言うまでもなく、ゴラン・パンデフ大王との別れのあと、 彼らは往昔のようにもう睥睨することはない。

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